生き甲斐

 

 横山珠夢 

 ※相模原市立橋本図書館 YA大賞2015 
短編小説部門 入選作品



 夏休みのお盆の週なのに、沙奈恵は一人で図書館から家までの路
を歩いていた。三十五度を越える気温と高い湿度で、額に汗の河が
流れている。黄色くて白い西日は容赦無く少女を射抜き、アスファ
ルトの陽炎と同化させていた。そんな可哀想な女の子の姿を気に留
める者は居ない。この時期街からは一斉に人が居なくなる。シャッ
ターやブラインドで閉め切られたオフィス街は、まるで蟻の目目線
の墓地の様だ。彼女の意識が蒸発しそうになるのを防いでいたのは、
皮肉な事に借りて来た重たい本だった。
「最近の若者は死にもの狂いで勉強しなくなった」
父の口ぐせである。
「そらそうよ。勉強はあくまでも手段。命を賭ける物ではないわ」
口に出して言える様になるには、もう少しの年月が必要だ。沙奈恵
はまだ小学六年生である。かなりの読書家でこの歳にしては随分物
知りだが、両親にはもう追い付けないのは分かっていた。ただ、本
を読んでいないと、自分という存在が日に日に亡くなって行く気が
して、その焦りが彼女を本の虫にさせていた。
 沙奈恵は冒険をするタイプではない。だが今日だけは違っていた。
この暑さで確り者の思考回路が一時断線してしまったのか。本来な
ら真っ直ぐ行くべき交差点で、行った事の無い左へ行ってみたくな
った。
「だめよ。道に迷ったらどうするの」
彼女の真面目な心から、消え入りそうな声が微かに聞こえた。
「それに、早く家に帰らないと、やるべき事がたくさんあるのに」
普段は強い知識欲も、借り過ぎた本の重みで虫の息だ。
 左の路をさっきより大きな歩幅で歩いていると、罪悪感という今
まであまり相手にした事の無い心が、遊んで欲しそうにぴったりと
付いて来た。無視しようとすればする程後ろのそいつが気になって
しまう。が、気が付くといつの間にか居なくなっていた。真っ直ぐ
だと思っていた道路が少しずつ右へカーブし出したからだ。つまり
元の通りに戻ろうとしていたのだ。
「やっぱり、神様がそっちへ行くなって言ってるんだ」
何かに失敗した時、いつも自分に言い聞かせていた言葉である。け
れども今日は違った。決して大仰ではない。天に逆らう決意で、最
初に目に入った左に曲がる角を先も見ずに曲がった。
 狭い小径に入ってすぐに後悔した。両側に自分の背丈の倍以上有
る何の飾り気も無い古いコンクリート塀が続いていたのだ。二百m、
いやもっと有るだろうか。塀のお終いは、暑さのせいか白く霞んで
見える。左側は深緑の木々達がてんで勝手に枝葉を伸ばしていた。
公園でない事は分かるが、それ以上は観察したくもない荒れ様だ。
一方右側には二階建てのアパートが三棟、塀と並ぶ様に建っていた。
人が死ぬと建物も死ぬ。良く言ったものだ。このアパートにはまだ
一人ぐらい住んでいるのか。そんな詮索も面倒になるくらい、美し
さの欠片もないひどい有り様だった。
 廃墟。沙奈恵の嫌いな言葉が頭をよぎった。細長い刃物が肉に突
き刺さる様な響きがする。戻りたいのを我慢して、半分の所までな
んとか頑張った。急に自分の立っている場所よりも、その先の妙に
明るい出口が恐くなった。とその時、塀の上に居た何か白い物体が、
道の真ん中に飛び降りて来た。白猫だ。ちらりとこちらを見た後、
背を向け先導する様に出口に向かって歩き出した。沙奈恵は猫好き
だが、白猫はそうでもない。むしろ二番目に好きじゃない色だ。で
も今日は違う。白猫の後を付いて行くと小さな溜め池に突き当たっ
た。
「こんな街中に池が有るなんて」
そこには、暑さを忘れるくらいの冷気が漂っていた。池に映る自分
の姿を見ていると、何とも言えぬ落ち着いた気分になる。
 魔が差す。とは一寸違う刹那の行動だった。低い柵を乗り越え、
汀に続く長い草の生い茂る斜面に足を踏み入れた途端、なんと沙奈
恵は、滑って池の中に落ちてしまったのだ。
 気が付くと、さっきと同じ池の畔に立っていた。いや、少し違う。
柵が高くなっている。斜面の草も短く刈り込んである。ぎらついて
いた西日の空は、何処へ行ってしまったのだろう。穏やかな風が楽
しくお散歩している。果てしなく高い青空とそこに浮かぶ白い雲が、
この世の物とは思えない程美しい。不思議な事にこの景色の方がし
っくり来る。まるで自分が絵画の一部になった様な気がするのだ。
そう言えば、池に落ちた筈なのに服も持ち物もどこも濡れていない。
「そうだ、借りて来た本を読もう」
仮死状態だった知識欲が息を吹き返した。池を見下ろす大きな榎の
木の下の洒落たスツールに腰掛けた。一冊目の本を四分の三読んだ
所で、
「さなえ」
と声を掛けられた。優しい、どこか気遣う様な声だ。顔を向けると、
隣のスツールに自分と同じ位の歳の男の子が座っていた。知らない
男子が自分の名を呼んだ事よりも、気付かない間に足音も立てずに
自分の真隣に座れた神業に驚いた。
「まさか足が無いとか……」
良く見たらちゃんと有った。視線をそのまま上に向けて確認すると
年齢もやや上、中学生だった。
「なぜ私の名前を知ってるの。あなたの名前を教えて」
「沙奈渡」
自分と似た名である事にさらに驚いた。それからの二人の会話は、
あまりにも自然だった。いつも口に出してしゃべる前に一度、頭の
中のチェックルートを回ってから言葉を出す沙奈恵が、今はそのま
ま、次から次へと話を提供していた。その様子はまるで吹きこぼれ
た大鍋みたいで、滑稽というよりは少し可哀想だった。沙奈渡はい
たわるような笑顔で、静かにそれを聞いてあげていた。時々お兄さ
んらしい助言を挟みながら。沙奈渡もこの時間を楽しんでいるよう
だった。
 二人は名前だけでなく、あらゆる面で似ていた。どこかで二人が
繋がっている気がしてならない。お互いが思い始めていた。しかし、
そろそろ家に帰らなければいけない時間になっていた。名残惜しい
が、沙奈恵は切り出した。
「私、道がよく分からないの。図書館まで出られれば家に帰れるか
ら行き方を教えて」
「図書館はもう無いよ。去年取り壊された」
急激に哀しい気持ちが込み上げて来た。
「どういう意味? 私は家に帰れないの?」
さすがの沙奈恵も泣きそうな顔になっている。
「俺の家に来いよ」
「そんな事したら、お母さんが悲しむわ」
「じゃぁ、俺が君んとこへ行くよ」
「やめて!」
このままだと、彼が取り返しの付かない事をしそうなのは明らかだ
った。
「すぐに離れなきゃ」
池の石亀がクポッと水中に潜る音に、凶人の様な目で沙奈恵を見詰
めていた沙奈渡の瞳が一瞬外れた。
「今しか無い」
沙奈恵は必死で走った。どこまでもどこまでも同じ様な街並みが続
く。この世の風景なのか、あの世の風景なのか。訳が分からなくな
って来る。行く手を何か黒い物が横切った。黒猫だ。一番好きでな
い色だが、今はそんな事言ってる場合じゃない。
「右よ」
猫が一瞬しゃべったかに聞こえた。沙奈恵は急に右に向きを変え、
猫の後を追った。どんどん気が遠くなって行く。とにかく走り通し
た。

 沙奈恵はベッドの上に寝ていた。病院のベッドだろうか。
「やっと気が付いたのね」
母が涙を浮かべていた。その横には父も立っている。
「今日も図書館に行ってたんでしょ。その帰り道に池に滑って落ち
たみたいよ。ずっと目を覚まさないから心配で……」
最後の方は言葉になっていなかった。
「沙奈渡は?」
あんなに怖い思いをしたのに、あの少年の事が気になっていた。両
親は明らかに動揺している。
「沙奈恵ももう十二歳だ。知るべきだと思う」
父が低い声で言った。
「ええ」
母は落ち着いた乾いた口調で語り始めた。
 両親の重い表情とは裏腹に、本好きの彼女にとってはよくある話
だった。沙奈渡は沙奈恵のお兄さんだった。沙奈恵がまだお母さん
のお腹の中に居た頃、あの池の事故で死に別れてしまったのだ。年、
月、日。全てが八で割り切れる特別な日に、自分が死んだ場所に行
くと、生きている人に会う事ができる。
「この辺りの地域の伝説だ」
父が付け加えた。なるほど、そういう事だったのか。
「沙奈渡は大きくなっていた?」
母がたまらず訊いてきた。
「ええ、格好いい中学生になっていたよ」
兄が一人で頑張っている世界をあれこれ尋ねるのはタブーらしい。
父があからさまに咎める仕草をしたが構うもんか。今度沙奈渡に会
えるのはいつだろう。いつ会っても恥ずかしくないように一杯勉強
しとかなくちゃ。父に反抗して、親の仇を討つみたいに本を読んで
いたけれど、これからは違うわ。沙奈恵は死の世界に生まれて初め
て生き甲斐を見出した気がした。

 

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 (C) Yokoyama,Tamami.